滞在三日目が終わろうとしている。
プサン到着後すぐに「ひとり芝居じゃなくなりました」というサプライズとともにスタート。
毎日作品について深く深く長時間ミーティングしたり稽古したり
美味しいものを食べ歩いたり、作品以外のことをたくさん話したり
そうこうしているうちにもう公演初日まで10日を切った。
今日の台本はプロローグとエピローグ。それだけでもぐったり。
濃い時間を毎日重ねている。
作品に向かいながら感じているメモみたいな日記みたいなノートみたいな
終わりも始まりも答えもないなにかたち…たぶん
近年の自分の演劇を振り返ると・・・
prayer/s での永山智行との大きな出会いが始まりであり、素敵じゃないか での
池田美樹との危険で確かな創作にぐらぐらと揺るがされゆらゆらと揺らぎ、そして
ヤン・ジウンに出会って、いま、闘っている。
もちろん他の演出家との創作やソネス落語やその他さまざま、それぞれに向き合い
感じてきたことはたくさんなるけれど、先に挙げたこの3点を結ぶ大きな川が
芯に流れているように感じる。この川はどこに続いてるのかな。
この流れの始まりが永山智行であることは間違いない…
というのは私が勝手に感じているだけなのだろうが
ただ、ここに、いる、ということ。
ただ、そこにいる、ということ。
かつて、いた、ということ。
生も死も続いていく、ということ。
繰り返される、ということ。
その刹那。
流れの始まりは永山智行…と挙げたが
もちろんそれ以前にすべては自分のカラダから始まる。
いや母親から、そして父親から、そして兄弟…友人…
いやもっと前の両親より前の…きりがないが
この釜山という土地で韓国語を話す人に囲まれ
ほとんどを英語で会話しながら唯一日本語のできる
リュンホとは日本語も交わしつつ韓国語の台詞を
日本語の台詞に書き換え………
この3日間少しの韓国語と少しの日本語を発するもののほとんどずっと英語で喋っている
別に英語が得意なわけでもないのに。いや、得意なわけではないと思ってたけど
必要に迫られてこれだけ喋っていると、あれ?私けっこう英語できるの?
なんて思う。いちおう大学は英語学科だったし…だけど相手も英語は母国語ではない。
外国語同士で喋っているから同レベルで通じるのだ。そうか、ここは「外国」で
私は「日本人」だし、なにより「外国人」なんだ。あたりまえだけど
韓国語の台詞を日本語に書き換える…
まず自動翻訳で訳して日本語ペラペラの人に確認してもらって、
でもニュアンスが難しくて作家のほっしている文体を探る探る探る…
文語体が好きらしい。詩的が好きらしい。私の言葉に寄せないように…
だけど文語体ってのもいろいろあって…感触が…迷宮に入る
日本語ってなんだろう
私の言葉と「日本語」には距離がある。
博多弁、福岡弁が、より近いのだけどそういう意味の距離とも違う。
方言と標準語ってことじゃなくて…口調…口癖にも近いものなのかもしれない。
「とても楽しい」ってことを言うのに「大変に楽しいのだ」とすると、
文語体かどうか以前に日本語として違和感を感じる気がするし、感じないかもしれないし
わざとほんの少し違和感を感じさせることで、日常の世界と少し距離を置くことを
意図的に仕掛けることができるかもしれない
口語体でも使う言葉でイメージが変わる…
めっちゃ楽しい すごく楽しい えらい楽しい かなり楽しい そーとー楽しい
めちゃくちゃ楽しい 最高に楽しい 死ぬほど楽しい 楽しすぎるー!
………なんという言葉に書き換えようか…と考え込むことさえ無意味かもしれないのだ
漢字の意味でとらえるような言葉より音楽のようなサウンド、響きが重要かもしれない
私が何語をしゃべるかは重要じゃないかもしれない。し、重要なことかもしれない。
答えはない
少なくとも今の時点では
私が何者であるのか
何故ここにいるのか
なぜ、今、ここにいるのか
日本と韓国はいつからこうなったのか
こうなった、の「こう」は「どう」なのか
すべてに意味があるし、すべてに意味はない
何者でもありえるし何者でもない
答えのない疑問を繰り返すそこに意味はない
意味はなくても意義はあるかもしれない
これでさえただの言葉遊びかもしれない
こうして言葉を並べることに意味はない
少なくとも私自身に深い意図はない
並べた言葉に意味を見いだす人もいるかもしれない
このノートにも終わりはない
ただただ書きながら少しでも頭や心を整理できたら
と思いながら書き始めたけれどどうだろう
とにかくとにかく今夜は宿題を済ませて寝よう
寝て朝がきて明日の自分が稽古に向かう
ぐっすり眠れ、今日の私
と、こんな、文語体のような…かたそうにも見える文体も、私の、だし
ミルミョン食べて、うまー!と叫ぶのも私
とりあえずシャワーだほい
そして宿題をがんばるのだー!